中学生の頃。読書タイムなる時間には、図書室から借りてきた本を真剣に読んでいる”ふり”をすることに徹していました。
なので読書が特に好きでなかった頃は朝の15分の読書タイムが憂鬱でなりませんでした。
ある時、理科の先生が設けていた、貸し出し本コーナーの中に「魔王」という伊坂作品を見つけ拝読したところ、情景描写の緻密さと、軽快なストーリー展開、そして何よりも興味を惹きつける異様な設定と、無数の伏線回収が、私を読書の世界に引き入れていました。
そんな、私に本の世界を教えてくれた伊坂幸太郎さんの作品である「死神の精度」。
学生の頃に一度読んだこの作品を、サブスクであるKindleにて発見し、改めて読んでみることにしました。
久々の伊坂ワールド
最近ではビジネス書を読む機会が増え、小説自体に距離を置いていました。
久々に読んでみると、小説だからか伊坂さんの作品だからか、スイスイと読み進めていくことができます。
新しい行を読み始めた途端、次の行が気になり始めてしまうような、もどかしさとその期待を上回る話の展開に、ものの二時間で読み切ってしまいました。
私にしてはなかなかのスピードでの読了。
読み切ったことへの達成感と、喪失感を同時に味わえるのは、良作ならではです。
死神の裁量で下されるのは「死」か「延命」か
主人公の死神である「千葉」は調査員として、調査対象である人間を7日間に渡り調査します。そして7日の間に「可」か「見送り」かを見極め、「可」であれば調査後8日目に調査対象は死に、「見送り」であれば天寿を全うすることができるという設定です。
しかし、調査において「見送り」になることはほとんどなく、「可」と判断することの多い実情の中、主人公である「千葉」が調査する人々に、いかに判断をくだすのかが見ものでもあります。
なぜこんなにも分かり易くて面白い設定が思いつけるのでしょうか。
記載の通り、主人公は「死神」です。
しかし、その実、調査部として派遣されているだけに過ぎない彼らは、たちまちの調査対象の生死を決められたとしても、誰を死なせるだとか、死を免れるように不死身にするだとかの魔法が使えるわけではありません。
あくまで生死の判断に対して機械的な側面が強いように感じる描写も多く、それらは死に対しての厳かな面を軽薄にしているようで、「死」をテーマにした作品にも関わらず、読んでいて快活ささえも感じられました。
人間でない死神からすれば、人の生死に対して達観するほかないのでしょうが、落ち着き払ったその考え方に私は憧れをも覚えました。
おわりに
裁量で下される「可」か「見送り」かの判断は、“死神の精度“がいかに粗略なものであるかが伺えます。
そして、例え「見送り」になったとしても、結局は寿命を全うするだけで、いわば一種の延命処置に過ぎないとも言えるでしょう。
死神の目があれば世界はきっと違って見えるかも———。
もしいつか、私の死を死神が見届けに来るのなら、
「人間世界はどんなふうに見えますか?」
と聞いてみることとします。
死神の感覚が気になった方は是非ご一読ください。