得意だった美術の授業
中学生の頃、一番好きだった科目は美術でした。
一時限の限られた、50分という時間の中で、課題を与えられ、縛り、条件の中で想像力を働かせるのはとても楽しかったです。
何より、絵を描くのが得意だった私は、描いた絵を人に褒められることに喜びを感じていました。
褒められることの少ない学生時代でした。
というよりも、友人が少ないのと、人との会話の機会もそう多くなかったことにより、自ずと褒められることが少なかったのです。
しかし、美術の時間だけは、周りが私を褒めてくれました。
私の絵を、私が生み出したその一枚を、みんなが褒めてくれたのです。
美術の時間は創作の時間であり、承認欲求を満たしてくれ、自尊心を高めてくれる、そんな時間でした。
真っ赤な額縁
ある時の美術の時間。
先生がいつものように授業始めに、その日の課題を指示します。
稀に、一時限では終わらないような課題は、二限分時間を確保されているようなものもありました。
今回の課題はまさしく一時限分の時間では終わらない内容で、三次限近くに渡って制作するものでした。
作るものは額縁。
材料となる木の板を切って、額縁の形になるよう組み立て、釘を打ち、彫刻を施して色を塗る。
そのような過程だったと思います。
褒められるのが好きな私。
今回も丁寧に時間をかけて、根気よく作っていきました。
花柄のデザインを、組み立てた木枠に施し、そのデザインに沿って少しずつ彫刻刀で掘っていきます。
授業の時間だけでは彫り終わらないと判断した私は、作りかけの額縁を家へ持ち帰り、そこでもせっせと花柄のデザインを掘り進めていきました。
おかげで、綺麗な額縁ができました。
やすりがけをして滑らかになった彫刻は、自分自身気に入っていましたし、何よりクラスの人に褒めてもらえると、自信満々に学校へ持っていきました。
案の定、私の彫刻した額縁は、クラスの数人から
「すごいね!かわいいね!」
と、褒めてもらうことができました。
嬉しかったです。
時間をかけ、手間をかけて彫りあげた額縁は、私にとっても愛着深いものになりました。
しかし、その額縁は最後の工程を残しています。
着色です。
多いとは言えない種類のペンキの中から、好きな色を一色選び、その色だけを着色していきます。
嫌でした。
木の色と、花と葉っぱ。
私の中で全てがマッチしていて、既に心の中では完成していて、これ以上手を加えたくないと思っていました。
ただ、先生に怒られるのはもっと嫌です。
少々投げやりになった私は、女の子っぽいからという時代遅れな偏見だらけの考えのもと、赤色のペンキを選び、額縁に塗りました。
私の額縁は真っ赤になりました。
不満だらけでした。
先生からしたら未完成の製作途中の額縁も、私からしたら完成品だったからです。
塗り上げた頃には愛着など残っておらず、私の額縁はよそ様のものになったような、そんな気持ちになりました。
塗った額縁たちを乾燥させる部屋では、クラスごとに様々なデザインと色の額縁が、綺麗に整列されていました。
ペンキの鼻にツンとくるような匂いと、暖かな日差しに照らされた部屋。
私は、自分のクラスのために設けられたスペースの最後尾に、先に置かれた額縁に倣って額縁を置きました。
見比べると、どうも他の人の作品の方が味のあるように思えました。
誰よりも得意な美術なのに、他の人の作品の方が上手に感じたのです。
だいぶ傲慢ではありますが、当時の私はどんな課題の作品であっても、自分の心の中では私の作品が1番だと思っていました。
それぞれの作品に、私自身が納得していたのです。
負けたのだと思いました。
縛りの中で
そもそもの話をすれば、着色することは最初から決まっていたことで、そのことを前提に作らなかった私がいけません。
設けられた課題、条件の中で作り上げるということ。
なんだか生きることに近しいように思います。
法律や規則、マナーやルールの中で私たちは暮らしています。
そして時間やお金、地球という有限の資源を前提としたうえで、生きているのです。
きっとこれからも、その縛りを意識して、配慮して生きていかねばならないのでしょう。
分かり切った縛りがあるのであれば、それを念頭に自分の納得のいく結果を見出さねばなりません。
おわりに
話は少しズレますが、美術という独自性を重んじる授業の中で、勝ち負けを念頭に置いた考えは、とても浅はかで稚拙なものでした。
ただ今でも褒められれば嬉しいですし、SNSで絵やイラストを見ると、
(私の方がもっと上手に描けるのに———。)
と、不要な張り合いの意識を持ってしまいます。
心の中の話ではありますが、もう少し一歩引いた、大人な考えを持てないものかと悩む、今日この頃なのでした。