簡単には忘れられない記憶
生きていると、人を傷つけたり、人に傷つけられたり、前途多難多くの出来事がありますね。
どちらかといえば、傷つけられた記憶の方が鮮明に覚えているものです。
中学2年の梅雨の頃。
淀んだ曇り空が気持ちを暗くします。
連日の雨で作られた大きな水溜りのせいで、真っ直ぐ歩くのはままならず、余った道を迂回しながら部活帰りの道を歩いていました。
同じ部活の苦手な3人の女の子達と共に。
女子中学生が集まると、何故あんなにも幼稚な考えが生まれるのでしょう。
「あの水溜りに飛び込んでよ。」
リーダー格の彼女が、大きな水溜りを指さして私に命じます。
残りの2人が何を言っていたかは覚えていません。
ただ、笑っていたことは覚えています。
友達が欲しくてイエスマンに徹していた私は、いつの間にか彼女らにとって都合のいい存在になっていました。
言ったら素直に聞く女。それが私です。
私は、ただ笑顔でいることに徹しました。
今考えれば酷い作り笑顔だったことでしょう。
ただ笑顔で、元から濡れることなど気にしていなかったかのように、水溜りに飛び込みました。
雨の時のために雨靴を履くほど律儀な性格ではない私は、履いていた運動靴に雨水が染み渡り、中の靴下までもを濡らしていくのをじっと我慢しました。
水溜りに飛び込んだ私を、3人はケタケタと笑っています。
しかし、それも長く続くわけではなく、数秒笑い合った後、3人は帰路に戻るのでした。
(子供がおもちゃに飽きるのはこんなようだろうか。私はおもちゃで、彼女らの友人にはなれないのだろう。)
重くなった足を不快な気持ちと共に引きずります。
彼女たちとの記憶はこのほかにも様々あります。
でも、どうやっても、笑い合ったり楽しかったりした記憶が思い出せないのです。
きっと彼女らにとっては遊びの延長だったのでしょう。
生きづらいあなたへ
よく、中学時代を思い出します。
それは嫌な記憶ばかりです。
2対6対2の法則をご存知ですか。
人間関係において、自分のことを好きでいてくれる人が2割、好きでも嫌いでもない人が6割、どのようにしても自分のことを嫌いになる人が2割いるということだそうです。
きっと、水たまりに飛び込むよう指示した彼女も、それを笑ってみていた2人も、私にとっては最後の2割の人たちなのでしょう。
恐らく、私がどれだけわかり合おうとしても彼女らのことを理解できなかったように、彼女らも私のことを好意や同情を寄せるほどの人間として認めていなかったのだと思います。
どんなに優しくて、どんなに人間関係の構築が得意そうな人間でも、嫌われる人が2割いて、好いてくれる人が2割いる。
そのことを理解しておくだけで少し気が楽になりませんか?
もっと言えば私を嫌う人が多ければ多いほど好きになってくれる人も多くなると言うことかもしれません。
ポジティブに生きるだなんて私には無理な話です。
だからこそ、残り2割の人を諦めるという考えを持つべきだと悟ったのです。
あなたの考えや、行動や、想いは、あなたの未来のために、人生を豊かにしてくれる大切な人に使うべきだと、今はそう感じます。
おわりに
冒頭にも話した通り、嫌な記憶はずっと心に焼き付いて離れません。
防衛本能でしょうか。
あの時の気持ちを二度と味わうことがないよう、同じことが起きようとしたら逃げられるようにと。
今は彼女らを非難することも、不幸を願うこともしていません。
ただ、あわよくば、私の今後の人生に彼女らが出演しませんように—————。
今はあの頃の記憶に対して、痛みを知る良い経験をさせてくれたのだと思うようにしています。
そして、決してあの屈辱を私の大切な人に感じさせまいと思うのです。
穏やかな晴れ間が今日も気持ち良く、賃貸の部屋の一室を、風がそっと抜けていくのを感じる、そんな今日この頃なのでした。